プロフィール コラム

おゆうぎの作り方





期間限定で、「むらさきmusicラボ」にて、「おゆうぎの作り方」を指導させていただいています。





むらさき幼稚園時代に培った「おゆうぎ作りのノウハウ」をちりばめながら、


生徒さんが、自力でみんなに楽しい振り付けを考えられるようになること、


それを、友達や家族に指導する方法までを指導しています。




【振り付けのポイント】


サビ部分には、同じ振り付けや、フレージングの取り方を統一するなど、覚える人にとって一貫性があって、理解しやすいものにすること。




手だけ足だけにならないように、全身を使う設定にすること。




出演者が公平になるようなフォーメーションの変化をすること。








【教えるためのポイント】


4拍子の曲なら、3泊目の半分がすぎたころの絶妙なタイミングの、次の動きになるちょっと前に、言葉で動きの指示をする。


<振り付け完了型>の振り付けでは、振り付けの変更をなるべく行わない。


教える人は、振り付けを完璧に覚えている。


覚えていない時は、せめて目線を落とさないように、暗号でのアンチョコをつくる。




**********


ところで、


むらさき幼稚園での「おゆうぎ」には、指導方法にある「秘密」があります。


今の私は、ラボでの後進の指導、私の後継者を育成するのが目的なので、


秘密も公開いたしますね。


いろんなこどもたちの幼児期の可能性が、少しでも広がることを願っています。




私が、「おゆうぎ」を教える時には、「何を」よりも、「誰に」が大事だと思っています。教わる対象が、「記憶のアップデート」が可能かどうか?例えば、幼稚園児なら、年少児は、一度、振り付けてしまったものを変更するということは、苦手です。後からできないからといって、簡単にしてしまうと、簡単にした後に、難しいことができたりしてしまうものです。


加齢によって、「情報のアップデート」が苦手になる場合もあるかと思います。私も、年々難しくなってしまい、消費税が何%だったのかをふと忘れることがあります。






幼稚園で想定される「振り付け」のやり方については、3つのパターンがあると思います。




1)振り付け完了伝授型


保育者研修会などで、CDを購入し、振り付けを実施で習得したり、書面で確認したりしたものを、園児たちにおろすもの。年齢別になっていて、わかりやすいのですが、その年齢なら誰でもという平均値にあわせたものなので、簡単すぎるという弱点があります。


でも、指導者は、順を追って、下から積み上げるような指導ができ、途中変更もありませんので、覚えてしまった後は、練習、トレーニングに集中できます。




2)みんなで振り付けを考えるコラボ形式


振り付けのテーマからのこともあれば、細かいところのみの場合もあるでしょうが、「振り付け」が決まっていないところで、話し合いで決める「部活」のような方法。指導者が、オリジナルの振り付けをしようとして、はっきりくっきりとした提示ができていないいいわけとして、「みんなで考えよう」という逃げに使われるような状態になってしまい、そのうちに、「毎日振り付けがかわって、結局覚えられず」という「その日気分」になってしまうことも、「部活」レベルの振り付けではあるようです。




みんなの意見をとりまとめてうまくいくケースもありますが、かつて、私の指導を経験した子たちが、大きくなって経験してきた話をまとめると、このような形を進めたがるリーダーの理由として、成功イメージがなく、舞台鑑賞などの経験値が浅い場合が多いと思います。




3)最初はカンタン、徐々にステップアップ方式


実は、むらさき幼稚園での「おゆうぎ会」は、ほぼ、この方法で指導をしていました。発表の場では、かなり高度なフォーメーションや、ステップ、表現も幼児たちがこなしているので、


「よく、教えましたね」


と、びっくりしていただくのですが、からくりは簡単。少しずつ、難しくしていっているだけなのです。ただ、これは、幼稚園という「毎日練習できる環境」だからこそ、園生活を共にする信頼関係があってこそなのだと思います。




保育研修で習った「既製品のお遊戯」の難しいところを、


「みんなができないから、簡単にするね」


だと、難しい情報のアップデートも、


「もっと難しいのができそうだから、こうしたいけどできる?」


と、投げかけると、案外できるものなのです。




**********


そして、


私の創作する「おゆうぎ」は、実は、リトミックの「動的造形」というジャンルを目指す、「音楽の身体化」「見える音楽」としての屋台骨があります。




音楽と動きが一致しているからこそ、


こどもたちが、音楽によって動かされ、


振り付けを覚えるという左脳を動かす暗記ではなく、


右脳で、音楽を聴いていさえすれば、自然と身体が動く動きをしています。






リトミックの中では、


「振り付けを覚える活動」ではなく、


むしろ、自由に自分で動きを考えて身体を解放するようなことの方が多いのですが、


むらさき幼稚園や、むらさきmusicラボで、幼い頃に私の「おゆうぎ」の指導を受けた皆さんには、ぜひ、その経験を糧に、


物事には、いろんなアプローチがあるんだ!ということに、自信を持って取り組んでほしいと思いました。




私も、


せっかく幼稚園で培った経験なので、こども、大人問わず、いろんな形で、この技術が広めていけたらと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

むらさき幼稚園 園歌

20170206_95830

ラボの発表会 2/11に、
たくさんの卒園児の皆さんがお集まりくださるというお声がけを頂き、
とても嬉しく思っています。
私のお誕生祝いということで、
卒園児の皆さんには、ぜひ、むらさき幼稚園園歌を歌って頂きたく、
歌詞を印刷したものや、大きな模造紙のものも用意したのですが、
スマホでも見られるように、画像を用意いたしました。
諸事情を踏まえ、
テキストデータを起こすのではなく、
私が所蔵しているいつかの運動会の記念品の園歌ハンカチの画像をアップロードしました。
ちょっと、歌詞が足りないところがありますが、
卒園児なら、難なく歌えるはずです。
まり先生、ピアノ、覚えているかな?
もう1年、園歌を弾いていないのですね。
そんな自分にもびっくりしています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

むらさき幼稚園メモリアル映像

同窓会の始まる前の午前中の、むらさき幼稚園の最後の一日の幼稚園の園庭を記録した映像を公開します。前に公開した「園歌」は、限定公開でしたが、本映像は、公開としました。東京の西に残る自然の記録としての価値も含むと思っています。

くぬぎの木群は、この地で有数のカブトムシの食事処で、都心では購入するものかもしれない黒いダイヤが、幼稚園では、「好きなだけ持ち帰れるおみやげ」でした。
「モチ」の木は、いつでも、子供たちが安全に木登りができる足場の枝が選定されていて、全卒園児にとってもの思い出の木だと思います。
「とうひ」は、毎年、クリスマスツリーとして、ホールに鉢植えにし、おゆうぎ会が終わると、直ちに園庭に戻されました。むらさき幼稚園の子達にとって、クリスマスツリーは、生きている木に飾りつけをするものでした。
最終部には、最後のイベント「餅ぶるまい」の準備の風景もあります。
ケータリングに頼らず、いつもでも、幼稚園では、こうして季節の食べる食べ物を提供してきました。
日本の風景を、幼児期に記憶できた子供たちは幸せです。
撮影は、園長の私が、東日本大震災後に、チャリティ参加をさせていただいている「でんでらキャラバン」で、
活動を一緒にさせていただいている
「アトリエ旅する木」森谷博さんに撮影のみをお願いし、
編集作業は、私が拙いながらも自力で行いました。
水族館の中の水の音が聞こえる映像には、
私がかつて園児だった,45年前の感覚が蘇りました。
そして、むらさき幼稚園の一番の良きところにも、その自分自身の感覚とともに気づきました。
卒園児だった私にも、幼稚園には、3年に1回の同窓会に参加の資格があり、
最初は、多分2年生くらいだったと記憶しています。
園児だった頃には、園バス通園(桃色コース)で、自力では到達できなかった幼稚園が、小学生になったら、自分で自転車で行けたことにびっくりしました。
高校生、大学生になった時には、同窓会には行けなかったけれど、お世話になった先生と電話や手紙で連絡をしました。
私立幼稚園の良さは、そうやって、先生が変わることなく、ずっとその場にいてくれることなのですね。
幼稚園に行けば、自分が園生活を送っていた頃と変わらない生き物の音がありました。
そんな時間を森谷さんが閉じ込めて、記録してくださいました。
私の進行予定として、園舎の骨組み、時計の二階が取り壊される前に、この作業を終わらせたかったので、もうこの世に存在しなくなってから、パソコンで映像編集作業をするのは悲しかったので、編集が荒っぽいことをお許しください。
園児として過ごした2年間。
先生として、28年間。
園長として、21年間。
むらさき幼稚園に育てていただきました。
ありがとう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Banda Choro Eletrico(バンダ・ショーロ・エレトリコ)

さて。毎年恒例のプロフィールコラムです。同カテゴリーから、今までの自己紹介もご覧いただけますが、今年は、バンド活動に及ぶまでの、私の多角的な活動についてです。

今まで、本業は、「幼稚園園長」で、幼稚園の終業後の夜や、休日に「リトミックWS」や、自分の楽団「ぺとら」で、演奏活動(うた、ピアノ)をしたり、お子様対応のライブで、ナビゲーターとして、オムツ替えスペースや授乳室を作ったり、安心して遊べるような環境設定をしたりしていましたが、申告が発生しないように謝礼を辞退したり、経費に使ってもらったりをしていたのですが、今度は、それも、ラボ(むらさきミュージックラボ=幼稚園跡地に設立したリトミック教室)と両立して、いろんな仕事をしていこうと思っています。

なので、今、新しい名刺のデザインを考えているのですが、各方面で、いろんなことを今まで積み上げてきたものを、いざ、これも「仕事」です、と言っていく責任を感じています。

・リトミック&音楽教室主宰

・お子様ナビゲーター

・楽団ぺとら主宰(ピアノ、歌、楽曲制作担当)

・手作り楽器講座、リトミック講座講師

そして、

・パフォーマー

ご存知のように、まり先生といえば、「おゆうぎ会」の振り付けを思い浮かべてくださる方もいると思うのですが、幼い頃にバレエをやっていたので、音大に入ってリトミックを専攻すると、すぐに、

「リトミックのプラスティックアニメ(動的造形)をやってみない?」

というお誘いがかかり、ゼミを待たずに、プラスティックアニメを「アンサンブル・ユーリズミクス」に入れていただいて勉強させていただいて、それは40歳くらいまで継続させていただいていました。そして、子育てが一段落した30代後半くらいから、オーケストラ作品を大人数で群舞する音大つながりの活動から離れて、ソロで、いろんなジャンルのライブで自分で振り付けて踊ったり、バグパイプの近藤治夫さんのお誘いで中世の踊り子風の大道芸をしたりするようになりました。

だいたい10年くらい、細々をやりつつ、幼稚園でも年に1度、おゆうぎ会でたくさんの振り付けをやったりしていたのですが、どちらも私にとっては、「プラスティックアニメ」。音楽を空間で演奏する気持ちで取り組んでいます。

バレエは、子供の頃から既に、トップを目指すのではなく、趣味と思っていたし、音大進学を考える時も、演奏をする側よりも、子供に関わることをしたいと思っていたけれど、私のできることで、何か一番得意なこと。私にしかできないこと、と言われたら、やはり、「音楽を空間で演奏すること」と、答えたい、ライフワークとしたいと思っていました。

「こどもの城」時代の先輩で、ほとんどの音楽活動を一緒に行っていた「つるさん」(小澤敏也 パーカッショニスト)が亡くなって、しばらく音楽から遠ざかるつもりだったのが、一番最初のアーティストとしての復帰作が、チェンバロ奏者武久源三先生の率いる「九次源」でした。その後、「浅草サンバカーニバル」や、パンデイロチームのメンバーとしての出演や、「ぺとら」も、「こどもの城」の閉館イベントや、「タンバリン祭り」(自主イベント)も行いましたが、どれも単発で一つ一つ、一区切りという感じでした。

一方、1年くらい前から、Banda Choro Eletrico(バンダ・ショーロ・エレトリコ)というブラジル音楽の中の室内楽のショーロのバンド、だけど電気を使っているよ、という名前のバンドに加入し、ひと月に1度の継続的な活動を続けています。

一般に、フリーランスが、自己紹介をするときには、一番メジャーなものから順番に言うので、私の場合、

「Banda Choro Eletrico(バンダ・ショーロ・エレトリコ)、パフォーマーの坂本です。」

と、いうことになります。

そのバンドが、CDをリリースして、大きな発表の場を持ったので、そのことをずっと書きたかったのです。

妖怪研究家、画家、パーカッショニストの渡辺亮さんは、

http://www.ryo-watanabe.com

つるさんの兄パーカッショニスト。私自身も中学時代に武蔵美サンバの亮さんと出会って、「こどもの城」でも、いろんなことを教わった大尊敬の兄貴です。

バンドのリーダーは、ブラジル音楽の重鎮「沢田穣治」さん。

https://ja.wikipedia.org/wiki/Choro_Club

30年前に一緒に中南米ツアーをした間柄から、亮さんは、沢田さんを「兄さん」と呼ぶ絆が あります。つるさんと私チームと、沢田さんとは、「おおたか静流」さんからのつながりの「でんでらキャラバン」で、初めて一緒に活動をするのですが、それは、死期の近かったつるさんにとっては、ほんの短い間でした。

つるさん→亮さん→沢田さん

と言う音楽の兄弟つながりは、いつしか沢田さんが、

「まりさんも、バンドに入ったら?そしたら、亮くんと会う機会が、増えるでしょ。」

と、お誘いいただき、日本のトップクラスのミュージシャンのお仲間に入れていただくことになりました。

これは、リハーサル風景。

音大で学んだことと、音楽で生活が成り立つプロミュージシャンというのは、理解度や、進行が全然違います。
キメを覚えるのが大変なので、私は、パフォーマーでよかったとホッとしているくらいです。
でも、私も、自分の領域では、プロに徹しています。
お客様と、バンドの音楽をつなぐ大切な役割は、
プロデューサーさんと、十分に打ち合わせをして、園長業で鍛えたコミュニケーション力で現場対応をして言っています。
ある意味、これは、私でないとできないこと。
衣装や、小道具のディレクションも含めて、自分で製作し、振り付け、パフォーミングして、お客様に音楽の楽しみ方を伝えること。
15歳で音楽高校に入学した時には、中学では、一番ピアノが上手い人だったけれど、音楽の専門の場では、みんながピアノが弾ける。ピアノが特技でなくなることで、自分のアイデンテティがなくなりそうでした。
リトミック科で、プラスティックアニメをみんなで踊ると、私だけ、バレエのようになってしまって、うまくいかないこともありました。バレエだって、リトミックだって、どっちでもいいじゃない。もっと自由なことを求めて、どうせだったら、アートや、手作りも取り込んで、「まりりんワールド」を作ってしまいました。

エレトリコのメンバーの皆さんと中華料理屋へ繰り出すところ。和気藹々。
年齢層は幅広いのですが、女子では、私が一番年上です。ママは、もう一人います。
音楽のジャンルも、現代音楽、舞台音楽、ファンク、サンバと、いろんなジャンルから、沢田さんからお呼びがかかった人ばかり。13人のメンバーは、皆、その道のプロなので、話題がつきません。

4/6には、大きなお披露目のライブがあり、最後は、他のバンドの出演者も一緒に、大団円となりました。
http://www.unit-tokyo.com/schedule/2016/04/06/160406_fervendo.php

私も、いろんなキャラクターのパフォーマンスをしました。

写真は、アンコールで、装束をとって、素になって、パンデイロを回しているところです。

つるさんが、亡くなる直前に、「最後の弟子」と言って、教えてくれたパンデイロですが、チームに入れていただいたものの、まだまだ、技術がおいつきません。

でも、全国的に見れば、「パンデイロ」で検索をすると、「小澤敏也パンデイロウェブレッスン」

https://www.youtube.com/watch?v=ihUmXQsfbTk

を撮影した人と、よく言われたりします。なので、公の場では、象徴として、パンデイロと一緒に登場しようと自分で思ったら、いつも応援してくださっている写真家の方が、とても良い絵を撮影してくださいました。

さて、まり先生は、これからは、園長先生ではなく、

街の音楽教室「むらさきmusicラボ」で、本気で音楽の弟子を育てつつ、

自分自身の表現活動も、今まで同様に、積みかせねていこうと思っております。

ラボの準備も、おもちゃを買い揃えたり、着々と、進めております。

6月オープン。

こちらも、ぜひ、よろしく!

以上、2016年の自己紹介でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

むらさき幼稚園園歌

3/26に収録した園歌の映像をyoutubeにアップロードしました。これは、限定公開ですので、このアドレスでしか繋がりません。ホールでの集いの風景を胸に刻みたいと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

紙面版「かれいどすこ〜ぷ」おしまいのご挨拶

「かれいどすこ〜ぷ」
「かれいどすこ〜ぷ」は、多分1992年(平成4年)くらいに、リトミックのお便り名を「こんにちはリトミック」から、変えたのだと記憶しています。ここらいらへんの年譜も記させていただくと、
1989(元)音大卒リトミック講師兼業年中組保育助手としてクラスに入る生活を1年しつつ、保育の基礎を実践しつつ、同時に玉川大学の通信で、幼稚園教諭の資格を取得します。
1990〜91(2~3)は、幼稚園はリトミックの時だけ通う講師待遇となり、他の幼稚園の助手をした時期もありますし、「こどもの城」や「霊友会音楽教室」などのアルバイトも経験しました。
91年(4)に、通信の玉川大学で園長資格の1種を取得したことから、幼稚園から「リトミック教諭」専任の立場で迎えられ、のちに、95年(7)に、先代の理事長が亡くなった後に、5代目の園長となることになり、28歳で、園長と同時に、私立幼稚園連盟の国分寺地区長も兼任することになりました。当時は、1種免許を持つ園長職ということで、いろいろなお役目を頂戴していた記憶があります。
今は、待機児童問題もあり、認定保育園制度も始まり、ついには、資格のない保育者も一線に投入など、いろんな情報が行き交いますが、私が園長の資格を取る時代では、中学高校の音楽教諭の資格を持つ者が、園長の資格も持つ中で、日々の保育とリトミックの融合を見つめるということに、大きな意義を感じ、そのあと二人の子を出産し、実家の母と、保育園の助けを得ながら、キャリアを重ねていくことができました。
ふりかえると、この「一度も辞めていない」ことだけが、唯一、私が誇れることだったのかなぁ〜と、おもっています。足掛け28年、幼稚園にいさせてもらって、そのうちのほとんどを園長という立場で過ごしてみて、いろんな勉強をさせてもらいました。
「むらさき」は、言わずとしれた完全お弁当で、「母の出番の多い」ことで知られている幼稚園です。その中で、教わる多々のことから、自分の立ち位置をその都度考えて、仕事として、運営をしていきました。
振り返ると、いろんなママたちとの出会いで、思い出がいっぱいあります。
妊娠、出産、初めての学校、学校の係活動、学童の役員・・・。
母としての経験も重ねつつ、仕事に活きる知識として得ることができました。
「かれいどすこ〜ぷ」は、実は、92年にリトミックの国際大会の日本代表の一員として、ジュネーヴで2週間のスクールを受けた時に、各国のリトミシャンに触れて、自分のリトミックも、いろんな角度から見たいなと思ったこと。
当時、ちょうど、幼児のお受験ブームが熱くなり始め、リトミックについての関心が高まり始めた頃だったので、園児たちも、幼稚園だけではなく、外部のリトミックに行く子が複数出ていて、その中で、
「外の受験用のリトミックと、幼稚園の保育のまり先生のリトミックが内容が違いすぎる。もっと、受験に役立つリトミックをしてほしい」とか、「もっと普通のリトミックをしてほしい」「小学校で習うピアニカを教えてほしい」というクレームがあって、それへのお答えとして、私がやろうとしていることをしっかりとタイトル付けてしめそうと、「万華鏡」のようないろんな面をリトミックを通して、提示していきたいという思いで、名付けました。
ピアニカについては、保育の中では、本園の理念の「小学校の予備校ではない保育」にそぐわないために、保育の中では教えずに貫きました。
新規音楽教室では、幼児の部でも、会員には、すべての子にピアノのレッスンをつけますので、そちらの方で、新しいスキルを伝えていけたらと思っています。
28年間。
むらさき幼稚園の先生で、よかったです。ありがとうございました。
*新規教室につきまして、少しずつ準備を進めております。園舎解体の工事が落ち着く、6月スタートとなりますが、「未就園親子」「幼児〜低学年」「パーカッションリトミック小3〜」「土曜ファミリー」「土曜アンサンブル」「おとなリトミック(子連れ&シニア)と、様々なご提案を用意しました。個人のピアノレッスンを承ります。継続したレッスンだけではなく、合唱の伴奏を引き受けたので、その曲だけの突貫レッスンなど、できることは何でも取り組みたいと思っております。
覚えていていただけたら幸いです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年の自己紹介コラム

毎年、「プロフィールコラム」 カテゴリーにまとめてあるのですが、自己紹介をいろんな切り口で書かせていただいています。

今回のテーマは、プライベートな新学期準備についてのレポートです。
今年は、幼稚園の園長としてむかえる最後の年、
次年度からは、敷地内に自分のリトミックのスタジオを持たせていただく準備中、
という背景で、継続して園の不要品の処分にあわせて、自分の断捨離を継続しています。
上の子のお姉ちゃんが、この春から、女子大生。
制服生活から、私服になり、
「毎朝、何を着ていこう?」
「靴は、これ履くとおかしい?」
「やっぱり、バッグは肩から下げるのをもう1個、ほしいかも。」
特別におしゃれな訳ではないけれど、
毎日、同じ服を着ていた制服ライフと、私服で通学というのは、根本的に違うようです。
それで、我が家も、部屋割りを変更して、
それまで、浴室の脱衣所にあるクローゼットに家族全員分の衣類を押し込んで、私が、実にこまめに衣替えをするというスタイルを改める事になりました。
園で、よくみかける光景だった、
春先の寒の戻りにおいて、
「もう冬ものしまっちゃったから」
と、薄物の衣類をありったけ重ねて、寒さに震えているという「まり先生アルアル」の理由は、予定のない週末にまとめて衣替えを何回もしているからだったのですが、そんなショボい私とはこれでお別れできるかな?
「冬」と「冬本番」と、「夏」と、「夏休み」は、違う衣類を入れ替えていたのですから、
本当に時間の無駄をしていたものです。
脱衣所のクローゼットは、父ちゃんと息子専用に全シーズンとして、息子が、服を選びやすいように、Tシャツ類もすべてハンガー収納にしました。
息子の服は、黒だらけなので、これで、半袖か長袖かがわからずに、畳んだ服を探すためだけに出すという事がなくなりました。
娘には、IKEAでアルゴートというパーツを組み合わせるユニットを組み立てて、タンスをつくりました。洋服ダンスをを買ってしまうよりも、これから先、独立をしたりした先で組み立て直せるようにです。(IKEAの組み立てが、これでかなり上達しました)
それで、私は、もう部屋がないので、息子の新しい部屋の片隅にベッドを置かせてもらって間借りという形にして、その部屋にあるウォークインクローゼットは、私専用にして、息子の部屋に友達がくるときには、折りたたみベッドをそのクローゼットに収納してしまえば、一見、私のモノがなにもナイというように見えるようになりました。クローゼットには、IKEAの1480円の組み立てスチール棚をおいて、お店屋さんのように、畳んで見やすく収納できました。何より、自分の服の全財産が、はじめて全容がつかめて、ますます断捨離が進みました。似た服を知らず知らずに重複して買っていたようです。
同じように、今、ローファーとスニーカーだけで済んでいた娘が、今、TPOにあわせた靴を買いそろえているところなので、靴箱のリニューアルを今後、考えていくつもりです。
娘が、幼児だった頃、幼稚園生だった頃を懐かしく思い出してみると、
(今のプリキュア的な)
おジャ魔女ドレミの中の好きなキャラのテーマカラーの「水色」にこだわって、
いろんな水色を探しては、買ってやったなぁ〜。
そして、
今でも、水色が、彼女のここぞ、という時の色だなぁ、と、
大学生の必須だというので、新調した持ち歩き用の軽いノートパソコンと一緒に買ったWiFiの水色カラーをみて、
「三つ子の魂」だなぁ〜、と思いました。
今の園児の皆さんも、
アナ雪だったり、プリキュアのテーマカラーが、いつまでもひっぱられる事になるかもしれませんね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

おやつ交換なしについて

このブログは、

在園の皆さんだけではなく、
保育や子育てに関係する様々な方に読んでいただいているので、
先日の遠足で感じた事を書いてみたいと思います。
私は、幼稚園教諭歴26年で、
いろんな場所にいろんな形体で遠足に行っていますが、
今年の遠足ではじめて「おやつ交換なし」という事をやってみました。
昨年、
「エピペン」の講習を病院に受けにいって、
実際に対象のお子様のエピペンをお預かりしたり、お泊まり保育に持っていたりした時から、漠然と感じていて、
いつのまにか文化として遠足とセットになっている「交換こ」について、
考えなおしてみたいと思っていました。
我が園は、100パーセント弁当の園なので、
給食をさけて、入園をされるアレルギーをお持ちの園児が常時複数で在籍しています。
誤食について、
気をつけないといけないのは、
聞いた話だけれど、
ママ同士では、気をつけているけれど、
ちょっと知っているおばあちゃん とかが、
「あげないと可哀想だから」
というような感じで、あげてしまうと、
後からそれがアレルギー反応としてでてしまうという件です。
あげた側は、好意なのですが、
もらう方は、例えば「落花生」とか「甲殻類」のアレルギーを持っている場合、
パウダー化されて、いろんなお菓子に風味付けで入れられていることもあるので、
こども自身では、判断できないという事です。
本園では、
今年度は遠足は、春の遠足を近くの公園で親子遠足として、
秋の遠足を園児だけでバスでいく遠足としました。
この理由は、親子遠足だと、どうしても赤ちゃん連れ、留守番がまだできない低学年の姉兄の事に配慮が必要なのだけれども、末子や一人っ子だと、時間をたっぷりかけて楽しみたい人もいる。車で乗り合わせる場合、責任問題が発生するという事からです。
このブログを読んでいる北海道のお友達には、びっくりされると思うのですが、
東京では、誰かの車に乗せていただく場合でも、責任の所在を問う場合があって、
助け合いのひとことではすまなくなっている雰囲気です。
これに対しては、園全体でも、随分と討論をしました。
結果として、園の判断で、遠足を二回する事になったのです。
それで、春の遠足は、親も一緒なので、
「おやつ交換」はありとして、
食べられないものがある子は、親に確認をしてもらうことにして、
「おやつ交換をする」
という遠足のお楽しみを実行できました。
「小学校に入ると、おやつを買うのに200円まで、とか言われるそうだよ〜〜」
「ウソ〜〜〜」
幼稚園の遠足では、ほとんどのこどもたちは、前日にスーパーで、ママに好みのものを買ってもらえるのを楽しみにしているので、小学校に行ってそれを自分で計算して買うと知ると、緊張をするようです。
今は、親の負担を考えて、自宅に買い置いてあるものを適量持たせるのでも良いように、表記に留意をしている学校もあるようですね。ディスカウントで買った値段とコンビニで買った値段が違うので、親の行動力によって、持ってこられる量に差が出る事に配慮しての事でしょう。
すっごく昔の話で恐縮ですが、
私の小学生時代の衝撃のおやつ交換の思い出は、昭和52年、小学5年生のとき、
同じクラスの男子の一名が、
「おやつ交換はしない。200円の制限のうち、180円を一度でいいから一箱食ってみたかったチョコクッキーを箱買い。あとの20円は、グラム計算で20円分をビニール袋に入れた「かっぱえびせん」」
と説明しつつ、
誰も寄ってこない木陰に陣取り、
とてもうまそうにチョコクッキーを一箱をあっという間に食べきって、
「甘いものの後には、かっぱえびせん」
のしょっぱ味を堪能していた姿です。
その遠足がどこかは忘れてしまったのですが、
彼のその意志だけは、覚えています。
だから、
交換こは、
義務ではなくて、
「よろしかったらどうぞ」
のオプションなんだと、
昭和の子の私はずっと認識していました。
ちびまる子ちゃんより、ひと学年した。
3年B組金八先生より2学年したの、リアルバブル世代のわたしです。
その後、
時代は、移り変わり、
幼稚園の先生として、ママたちのおやつ交換の流儀なんかも、観察してきました。
おやつ交換をこどもだけではなくて、
親への配慮として、福神漬けを漬けてくる人もいたし、
おやつ交換をするためのビニール袋にも、いろんな家庭のリサイクルのルールがあるんだな、と先生として観察をしていました。
こども同士のおやつ交換の場としては、
本園では、年長児の修了遠足だけなのですが、
親はいないけれども、ママたちに言われたように、
「○○ちゃんには必ずあげなければいけない」
みたいな事を律儀に実行している姿もあったけれども、
先生の目からみて、
「誰からももらえない子」はいなかったし、
あげたくない子は、あげなくても、親がいない場所では、それは気にならない程度でした。
「○ちゃんにあげたけれど、お返しがない」
という子がいれば、
それは、お返しを要求する方が悪いと、私は意見を言っていました。
義務ではないと私は思うからです。
あげたい人があげる。
返したい人は返す。
私たち、先生も、
もらった子に返せるように、返礼用の小さいあめ玉などを用意していました。
そして、
交換なしという制度に、
はじめてしてみました。
そして、わかったのは、
交換なしだと、
時間がとても短く済むという事です。
みんな適量だけ食べて、
「もうおしまい」
と、残しておいて、
「あとで食べる」
と、バスでおやすみの体勢になる子もいました。
きっと、上に兄弟がいる子は、ここで食べきらないと、家でとられると食べていたと思います。
なんだか、
それぞれで、
すごく良いなと思いました。
交換こは、禁止だけれど、
見せるのはOKとしたところ、
でも、それすらみんなはしませんでした。
そんなもんなんだな〜。
あっさりなんだな〜〜。
と、思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『2014年の自己紹介』

1397561582783.jpg  ブログ「かれいどすこ〜ぷ」には、毎年書く自己紹介をまとめてカテゴリーにしています。よろしければカテゴリープロフィールコラムもいつか読んでみてくださいね。

さて、幼稚園は閉園にむけて新入園児の3歳児さんは在園のご兄弟のみということですが、外部むけのリトミックに4月からはじめましての方もいらっしゃるので、はじめましてという形の文を綴ってみますね。
本園は、創立49年。この市の学習院を目指すという事で、教育内容の特色に創立以来リトミックをおいていて、私が幼稚園生として在園していた時は、「窓際のトットちゃん」の小林宗作先生のお弟子さんの白井民枝先生が、主任とリトミックを教えてくださっていました。
私の家は、音楽一家で、祖母はソプラノ歌手(故人)、母は今は合唱指導のみですが、長く自宅でピアノ教師をしていて、父は中高の副校長で音楽専科(故人)でした。リトミックをやっている幼稚園というので、両親がこの園を選んでくれた事が、今の私につながるわけで、本当に不思議だと思っています。弟は、NHKのテレビ絵本なども担当させていただいている作曲等の仕事をしています。
家で母がピアノを教えているので、私はずっと耳でピアノの曲を覚えてしまっていました。それで、その音を自分で勝手にピアノで辿りながら、小学5年生で「耳をひらく」という指導法の藤原弘恵先生に出会うまでは、指使いもメチャクチャ、楽譜も読めない状況でした。今でも楽譜や楽典は苦手です。
私のピアノの練習はといえば、超テキトーで、親にバレないように音だけはしっかしレッスン室から聞こえるようにしておいて、膝の上で漫画を読んでいたりして、弟がいいつけて大目玉!なんてこともありました。クラスのみんなが「ザ・ベストテン」をみていて、中学生になると「たのきんトリオ」の全盛時代。トシちゃん、マッチ、ヨっちゃんのうちのどの人のファンかを決めておかないと、女子との会話が続かないような感じなので、あんまり女の子のお友達がいませんでした。それは、小学校低学年の頃からで、トカゲをつかまえたり、魚を掴んだり、虫を持っていたりするので、仕方ないですね。
一番の理解者は、おばあちゃん。銀座の紙屋の出身の祖母は、ハイカラで、日生劇場で四季をみて、銀ブラデートや、夜の怪しい浅草など、いろんなところに連れてってもらえる初孫の特権でした。
中学校は、武蔵美の隣で、いつも変わった格好をして歩いている自由な大学生は憧れでした。ひとりで武蔵美の学園祭にいくと、そこで「サンバのパレード」をみました。なんだかいろんな太鼓があって楽しそう!と、テントのような小屋の「サンバ」の部屋に入ると・・・。
「ビリンバウ」という弓矢の楽器を一心不乱に演奏しているお兄さんがいました。演奏もすごかったけれど、お兄さんのその楽器の説明が面白かった。だから、「ビリンバウ」という楽器の名前をずっと覚えていました。
いつかちゃんと音楽を勉強して、その楽器の事を知りたいと思いつつ、国立音大の付属高校から音大のリトミック専攻の教育学科に入りました。でも、誰にきいても、「ビリンバウ」の事はわかりませんでした。インターネットがない時代、検索できない時代の事です。
民族楽器学の「郡司すみ」先生の講義をとりました。夏休みの宿題で、自分で楽器をつくるというのがあり、工作が得意な私は、自分で考えた「ビリンバウ」を自作しました。絵の具で丁寧に彩色したからか、郡司先生は、大変気に入ってくださり、「これ、私にください」と言ってくださって、音大の楽器博物館に展示してくださいました。
後で、楽団「ぺとら」を一緒につくる事になった弟分の「つぅーじー」は、ひと学年下の楽理科の学生で、私のこの楽器をみて、声をかけてくれました。親しくなるきっかけのひとつだったのかもしれません。余談ですが、このブログは、「つぅーじー」が、「毎日文章を書けば上手くなる」とすすめてくれたのがきっかけで、湘南ビーチFMで面白いコラムを書いている「つぅーじー」に負けていられないと、はじめたものです。まだ文章はうまくなっていないぞ。話しが違う。
音大時代は、中学生の時に武蔵美でみた「サンバ」がやりたくて、「打楽器アンサンブル同好会」に所属。「サンバ」は教えられる先生がいなくて、ほとんどできませんでしたけれど、仲間とアンサンブルする演奏の楽しさをはじめて知る事ができました。バレエもこの頃は、発表会にも出てがんばっていました。
音大卒業後、最初の1年は、この幼稚園でリトミックと保育助手で専任し、翌年の1999〜1992年3月は、リトミックは週3回の講師で、空いている日を「こどもの城」でアルバイトをしていました。そこには、「口琴」「ガムラン」「三味線」いろんなスペシャリストがいたのですが、「サンバ」にも力を入れていて、中学生の時にすごいな!、と思った「ビリンバウ」のお兄さんにも再会!
「この楽器、ビリンバウですよね。」
「なんで、ビリンバウって知ってるの?」
「武蔵美の学祭で観たんです。」
「それ、ワシや!」
渡辺亮さんです。
Img_1880
(写真は園で演奏してくれた時の亮さん)
そして、その亮さんが連れてきた「サンバ」のすごい人が「ツルさん」(故小澤敏也さん)。ツルさんは、最寄り駅が近かったので、行き帰りの電車の中でも、熱く、熱く、ローリングストーンズの事など、私が音大で習わなかった音楽の世界をいろいろと教えてくれました。ツルさんとは、その後、2007年に再会、2009年より楽団「ぺとら」に加入で、演奏やワークショップを一緒して、同時に休日にはツルさんのスタッフとして、おおたか静流さんの活動などに参加したり、ウェブのお手伝いをしていました。2013年11月に癌で亡くなられて、とても残念です。
1992年から、幼稚園にリトミック教諭として専任になり、1995年から園長兼任となりました。今は高校3年生の娘と中学2年生の息子を産んだり育てたり、保育園の送り迎え、自分の勤務園に入園させていただいて、ママ友にも仲良くしていただいて、慌ただしい30代はあっという間に終わりました。
そんな時に「つぅーじー」の縁で、バグパイプ古楽奏者の近藤治夫さんと出逢い、「中世の放浪楽師」の一団として、首都大学の学園祭の出演に混ぜてもらったのがきっかけで、つぅーじー、近藤さんと3人で「楽団ぺとら」を立ち上げたのが2007年。活動が外にも向いた事で、リトミックを教える幅も広がり、震災後は、おおたか静流さんらの活動にも参加させてもらい、いろんな事を考えるようになりました。
そして、今日、この頃、思うこと。
付き合いが長くて、大事な交流関係のほとんどを共有していたツルさんが人間界から消えてしまって、その交流関係の主なスピーカーが私になりました。つまり、今までツルさん経由で聞いていた話しを今は私がしたり、聞いたりして、あぁ、それは自分自身のつながりにさせていただいているんだなぁ、としみじみ思うのです。
ツルさんが私に託してくれた楽器のメンテナンスを亮さんがしてくれて、生徒さんたちがそれぞれ得意な楽器の事を教えてくれて、今までツルさんとは、「いつもの方のアレ」とか「スーパーの袋に入ったヤツ」とかだった楽器の名前を亮さんに聞いて、名札を貼って覚えたり、過去にツルさんが雑誌等のインタビューで答えている文献を読み直して勉強しました。
「楽器と対話」するという事もだんだん理解しはじめています。園児たちと楽器と触れ合う機会をつくったら、私、ちゃんと説明できました。いつもツルさんがワークショップで話しているとおりに、アフリカとブラジルの国の事もからめて、こども語で言えました。さすが、ツルさんが私のためによりすぐって選んでくれたものだと思います。運動会組み体操を手伝ってくれた時に、私にレッスンをする度に運んできてくれてきたものです。
Img_3331
同時に、「自分自身って何なんだろう?」を暇さえあれば探求するようになりました。自分が亡くなるための終活を見せて教えてくれたツルさんの影響で、私も自分の身の回りの整理をずいぶんとはじめました。こどもたちに見られたら恥ずかしい小中高の通信簿を捨てました。
高校生の頃に大好きだった雑誌「オリーブ」のスクラップブックも見つけました。バラバラに置いていた画集も一緒に並べて、想像する力を呼び戻そうと思っています。
Img_1334
春休みに母と娘と富士山を見て、ホールの壁面を描きました。
自分のやりたい事を書き出そうと思っています。
大好きなメリエスの「月世界旅行」の月の絵を描き直したい。
Img_2357
ポスターカラーじゃなくて、アクリルガッシュとか他の画材を試したい。
親指ピアノのカリンバの壊れたのを直したい。
大きなカリンバで曲がつくりたい。
釘のジャラジャラの楽器のさびを落として直したい。
17年前に買った竹の楽器アンクルンの音階が消えた。良い機会だから、雑音の楽器として園児たちとジャンジャン使いたい。
楽器の説明をする授業をたくさんして、新しい展開を考え出したい。
閉園を迎えるにあたって、
これからどうしたら良いのかをずっと考えています。
幼稚園の園長先生としては、その程度のリトミックで良かったのかもしれないけれど、これからは、リトミックも、もっともっと磨かなくてはいけないと思っています。
がんばりすぎて、
がんばりどころを間違えそうな予感でいっぱいです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

友人の訃報についてのご報告(つるさん、小澤敏也のこと)

この記事は、園児が読めないように、あえてこどもにわかりづらい表現で書いています。

(後に、プロフィール欄にカテゴリーを移動させた時点で、個人名を追加しました。)

今週は、友人の死去、通夜、葬儀のために時間休暇と早退を二回とらせていただきました。桜組においては、保護者の方から香典も頂戴いたしました。同組の一園児からは、手紙も頂戴したので、棺に納めました。もったいないので、とっておこうと思ったのですが、直前でその方が良いと思いました。彼もそれで読めるかもしれないと思ったのです。
ホームページ の管理やyoutubeの管理をまかされていた事から、私は彼のマネージャー扱いをされる事が多いのですが、もちろん本業優先で、幼稚園を彼のために休んだりした事は一度もありません。でも、平成2年に出会ってからの長い年月を考えると、多くの友人を共有しており、おおたか静流さんのまわりの方などを含め、仕事関係の方の事とのつながりを一番理解している友人が私という事で、息をお引き取りになる瞬間には立ち会えませんでしたが、18日亡くなってすぐに呼んでいただき、一夜明けて19日は出勤した後、ご遺体に対面をするごく限られた数名の友人とご家族とがお会いするのをお手伝いする意味で、勤務を抜けさせていただきました。
桜組のこどもたちには、「つるさんのお手伝いをするから」
と、その時には告げました。
本当にお手伝いだと、自分でも思ったからです。
翌日の水曜日には、通常勤務をし、その中におゆうぎ会への準備として、役員会がありました。そこで、私はどうしたら良いのかを役員さんに相談したのです。
こどもたちに心の傷はつくりたくないけれど、
週に3回もいない時間をつくる事をきちんと説明しなければ、
こどもたちが疑問に思う。
おゆうぎ会前で、他のクラスが劇をしている間。
自分のクラスの担任が「つるさんのお手伝い」と言っていなくなったら、
自分たちとつるさんどっちが大事?
と、きっとこどもたちが思うだろうと思ったのです。
いろんなご意見のひとつとして、
年長さんだったら、「死」という事について、きちんと話せば、
理解できると思う。下手に言い訳をしない方が良い。
膵臓癌で末期は相当な痛みがあったので、壮絶な死に様だったようです。
確かに、彼の場合は、それで楽になったと思います。
そこで、役員さんと手順を考えました。
ただ。クラスの園児に「死にました」を伝えると、
それをご家庭で伝えて、今度はお母様方がパニックになってしまう。
我が園には、たびたび遊びにきていたし、
毎年保護者むけにリトミックのワークショップも開講してくれていたので、
お母さん方にとっても大切な幼稚園パズルのピースだと思うのです。
そこで、最初にお母方に知らせるために、私が園で発行している新聞に書こうとも思ったのですが、それだとこどもの目に触れるために、受信料のご負担を考えて最小限にとどめているクラス連絡メールを使う事をお許しいただきました。
まず水曜日の時点で、保護者様にお伝えする。
年中、少は、保護者のみにとどめていただく。
木曜日。
年長は、私が早退をする前までに、クラスの中で私が担任として話す。
家庭に帰ってから、消化しきれない部分をご家庭でフォローしていただく。
という手はずになりました。
緊張しました。
私は、在職25年で、祖母と父を亡くしましたが、故人の遺言で二人とも教職だったために、私の勤務を最優先にするスケジュールを組んだために、忌引きの経験がありません。園児には報告しましたが、欠勤していないので、簡単なものでした。
でも、今の時期に担任がいないのは、大事です。
なので、一晩考えて、論理を組み立てました。
やはり、「つるさんのお手伝い」には、違いないのです。
ほぼ、葬儀委員長のような役割で、受付にいてくれる方の手配や、
弔電のセレクト、参列してくださる方々にご挨拶を喪主は動けない分、
私の役目となりました。
だから、
「お手伝い」と言っても、生きてるお手伝いでなく、
死んだからのお手伝いだと言いました。
水曜日は、放課後に劇の切り出しの「切り株」をつくり、
帰宅すると、故人の遺言通りのBGMのCDをつくりました。
参列された「おおたか静流」さんは、自分の曲ばかりで驚いておられたと思います。
自分が演奏に参加した曲よりも、闘病生活を支えてくれた曲で、
安らかに天に昇りたかったのでしょう。
死の翌日の夜は、
葬儀屋さんが来て、打ち合わせで、
独身だった彼のため、
ご親族にまじり、長年の親友として、
高校時代からの4人と兄パーカッショニストの渡辺亮 夫妻と私も加わりました。
不思議な事は、そこから次々と起こりました。
亮さんは、私にとっても、とても大事な人です。
園でも演奏していただきました。(ここに後でリンク)
亮さんと出会っていたから、彼に繋がったのです。
だからからか、
深夜になったので、車を安い駐車場に移しにいく途中、歩いていて何故か道に迷いました。彼が亮さんと私がふたりだけで深い話をするためとしか思えません。
亮さんがその時に私に言ったことば、
「こんなに長い間、友達でいたんだから、もうこれは愛なんだよ。」
と、彼も亮さんも、亮さんの奥さんも、家族だとここで確信する事ができました。
亮さんと二人で、亡くなった報告をあちこちにしていたのですが、どうしても彼のスポンサーであるANAジュネーブと連絡がつきません。送ったはずのメールが届きませんでした。16日には、彼女と会っていたのですが、私はもうスイスに戻っていたと思ったら、まだ出張中だったようなのです。彼女が無事に家について、休息をとったあと、ふとHPをみて死去を知り、国際電話がかかってきました。「きっと、無事に到着するまで、知られないようにしたんだね。」と。
多忙な静流さんには、訃報を知らせるなと、遺言で指示されていたのですが、静流さんは、「彼によばれた」と、葬儀に参列してくださいました。
弔辞で亮さんがビリンバウを演奏していると、ふと、彼と交信するような瞬間があり、亮さんは抜け殻になりました。彼の大事な友達がひとり、火葬場へのマイクロバスに乗っていなかった事を彼が知らせたかったのだと、後で気付いて、みんなで泣き笑いです。
火葬の後、ご親族みんなで、私が撮影しているパンデイロウェブレッスンのyoutubeをみながらパンデイロを叩いたそうです。彼の自慢の建築家のお兄さんは、一番下手くそだったらしく、お尻がふわっとその時に浮いたそうです。
桜組でお弁当を食べ、パンデイロを叩いてくれたのが、10/7。
運動会、組み体操で私がジェンベ、彼がブガラブーを叩いたのが10/12。
容態が急変したのが、10/15で緊急入院。
腹水を抜き、ダメージを受けましたが、手のほどこしようがなく退院。
車椅子生活になってからは、何回かお散歩に連れ出しました。
亮さんは、大事なアート作品の「木霊」を彼にお守りとして送ってくれました。
亮さんが、弱っている彼の前に、木の精霊のオブジェを次々と目の前で積み上げて、
まるで森をつくっているような情景は、忘れられません。
これが「愛」なんだね。
友情をこえると「愛」なんだと感じました。
高校時代からの友人の4人は、すぐに私の兄貴になりました。
「はじめて会ったけど、君が大好き!」
まるで、「ブレイブ」(今桜組で取り組んでいる劇)のセリフの通りです。
なんでも相談しているし、なんでも答えてくれて頼っています。
本当は、彼らに彼を担いでもらって、「笑点」の公開収録に連れていきたかった。
幼稚園の笑点にも来たがったけれど、入院中だったので、残念がっていました。
彼の遺体を湯かんしている間、
亮さんは、彼の遺作の作曲作品の音源を採譜して、
生徒さんに託すのを手伝ってくれました。
亮さんは、私が預かった彼の「終活」の葬儀連絡リストを眺め、
自分の知らない人の事は手帳に書き留めていました。
きっと、これから友達になるための準備をしているのだと思います。
桜組のみんなにも話しました。
「まり先生の友達のこと、みんなけっこう知ってよね。
友達の事を好きになれば、その友達の友達の事も好きになるよ。
六小に行った子が、九小に行った子の家に遊びにいったら、九小の友達がいて、
それはもう君の友達だよ。
友達が友達になってつながっていくんだよ。」
私のまわりの人々は、まさにそうやって亮さんから、彼につながり、また彼が繋いでいってくれたものです。
幼稚園の保護者の皆さんにおかれましては、
本当に数々のご理解とご協力を感謝しております。
これから、遺言により、
私に譲ってもらえる主にこどもが叩いて遊べる楽器を中心としたものが園にやってきます。
しっかりとねらいをさだめ、
「楽器は魂、遊びで扱わない」ことを教えて、
「楽器は心を映す鏡」であるという彼の精神を教育におきかえていく決意です。
ありがとうございました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)