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無風

プライベートな近況報告です。
先週、9月5日(水)に実父が74歳で亡くなりました。

大腸ガン由来で危篤と知らされたのが、ちょうど園のお雛祭りが終わった後、
何度かの転院と、人口肛門ストマの装着手術、その後、しばらくして胃ろうの設置と、
家族として同意を求められる苦術の決断を体験してきました。
6日の日は、深夜の3時に訃報が届いて、早朝に遺体を病院で見送り、
そのまま、園に出勤しました。

定年前は、私立の中高一貫校で長く副校長を務めていた父の遺志で、
なるべく園にいようと思いました。
母も、亡くなった日には、東京カテドラル大聖堂での声楽の発声法講座の講師の仕事に、
誰にも告げずにむかったそうです。
我が母は、本当に強いと思いました。

昨日の9月8日(土)には、親族だけの密葬を行いました。父の故郷の宮城県から、兄妹とその親族数名が集まりました。嫁いでからは、疎遠になっていましたが、高校生の頃まで、毎年夏を松島の叔母のお寺や、野蒜の実家で過ごしていました。野蒜の家には、陸の玄関と自家用船用の海の玄関があり、日常の生活に海がとけ込んでいるようでいろんな思い出があります。

311の震災では、野蒜は津波で大変な被害にあいましたが、壮絶な体験をしたものの、全員が救出され無事でした。
松島は津波の被害はなかったのですが、叔母の寺は避難所として、80名を受け入れて宿泊と食事を提供していたそうです。
被災直後の安否確認では、「すきやきとか上等なものを毎日食べてるから大丈夫」というたくましい報告でしたが、直接、肉声で体験談を伺うと、冷蔵庫が使えないから、とっておきの肉から食べてしまったという事で、嫁ぐ前は幼稚園教諭をしていた先輩、叔母のたくましい話に耳を傾けていました。

父は昭和13年生まれで、古川高校に在学中に、初めて講堂にピアノが来たそうです。まだ、地域には個人でピアノを所有している家庭はなく、毎日、放課後に講堂のピアノを弾かせてもらう許可をとりつけて、夜まで寒い日には、手袋をはめてピアノを練習したという話を耳にタコができるほど聞かされていました。
父は、それほど苦労をして、国立音大の教育科に進み、在学中は立川米軍キャンプのジャズクラブでピアニストをして学費を稼いだそうです。
産まれた時から家にピアノがあり、しかも暖房がついた部屋で練習ができる環境があるのに、なんでピアノの練習時間がそんなに少ないのか!と、いつも私に小言を言っていました。

父は卒業後、東芝レコードのクラシック部門で働いた後、音楽の教師となり、同校の中等部の音楽教師だった母とは職場結婚。母は退職して、その後自宅でピアノ教室や合唱の指導の仕事をはじめました。
父が管理職になってからは、夏はカナダやロンドンにホームステイ留学の生徒を引率する任があり、関連の交流で家にもよく提携校の先生方がホームステイをしていました。私の英語が酷いのも、父の酷い英語を聞いて育ったせいで、よくもまあこれでというような英語を平気で話していました。ホームパーティーでは、延々と英語で話しつづけ、しまいにはピアノを弾いたり、下手糞なチェロやトロンボーンまで披露したりと、相当恥ずかしい思いをしたものです。私も必ず外国人客の前でピアノを弾かされました。

時代が時代だったからだと思うのですが、昔の学校の先生は、娘が跳び箱が跳べないとわかると、すぐに学校から跳び箱を持って来てしまったりしました。庭にドンと跳び箱があるのが恥ずかしく、すぐに跳べるようになって、学校に持って帰ってもらいました。
小学生になっても、泳げない事が発覚すると、「御影橋プール」に毎日車で連行され、水泳の特訓もさせられました。今、自分が母になって思うと「学校プール」とかあったろうに、です。

父は、教育熱心かというと、そうでもなく、全体的にはマイペースな人でした。
ホームステイプログラムの役職から離れると、長期休暇には個人的に海外をまわり、中欧で古いレコードを買い付けて、日本で売却して次の旅行資金にあてるという事を熱心にしていた時期もありました。

父は、ピアノに対してすごく執着があり、家にピアノを増やし続けました。一番、多い時でグランドピアノが3台あったのです。
ホームステイに訪れる外国人や、私の英語の先生のウルスラさんが、ホームパーティーの最初に行う家の説明の儀式では、なるべく皆が驚くような段取りを考えて、サプライズとして、
「ワンモアピア〜ノ!」
と、演出をしていた口調が耳の記憶で残っています。

1台は、母の嫁入り道具でピアノ教室をするためのピアノ。これは、母のレッスン室にありました。
父は、夫婦の寝室の横に12畳のオーディオリスニングルームをしつらえてました。外国で買ったレコードを視聴して、出来不出来を自分で振り分けて業者に卸すためです。
冷蔵庫くらいある大型スピーカーがあって、そこにさらにグランドピアノを2台置きました。
3代目のピアノが、今、園のホールに置いてあるヤマハのG7で、コンサートホール等に使用される共鳴部分が長いピアノです。
このピアノを購入する時にも、私はダシにされました。
「まーちゃん(私)のピアノ成績がイマイチだから、G7を買ってやった。」
音高のピアノの評価はとても厳しくて、線が細い私のタッチだと好成績は臨めず、
指の筋肉の増強なども訓練させられました。
でも、G7で練習すると、音の残響が面白くなり、大学に入ってから、はじめてピアノでAがとれました。このピアノで初めて弾いたドビュッシーの「夢」は、自分で弾いた演奏で自分で感動してしまいました。今では、園でリトミックを教えるために雑に弾いていますね。同じピアノなのに。

父は、ピアノの調律も自分で趣味ではじめてしまい、音色を変えるため削ったりもしてしまい、失敗もしました。そのピアノは、もう使えなくなり中国に渡り、リストアされました。

小学4年生まで、団地だったのですが、その頃には、ピアノ教室にはグランド1台、こども部屋にはアプライトピアノでした。母が生徒さんたちに教えるバイエルを私は耳で聞いて、こども部屋のアプライトでなぞって弾くうちに、ピアノは自然に弾けるようになり、絶対音感もついていました。

国立音大の黎明期の卒業生で、声楽家として高名だった「手塚久子」を母を持つ母は、早期音楽教育を受けて育ち、
父は、反対にほとんど音楽というものを知らずに育って、苦労してピアノを取得しました。
その両親の違う早期音楽教育への思いが、私には与えられてきたのだと思います。

父には、「ウィーン少年合唱団がくるから」
と、連れていかれ、
「今度は、ウィーンの森少年合唱団がくるから」
と、連れていかれ、どう違うんだ?と思ったりもしましたが、父との外出は、コンサートの帰りなのに食事は牛丼屋だったりして、今にして思えばチグハグでした。

犬の散歩に、カナダで買った毛皮の立派な尻尾のついた帽子を冠っていて、玉川上水では浮いていました。

27歳の時、父と二人でソウルに行きました。
格安航空券なので、深夜にYMCAの安宿につくと、
ベンチで寝ている従業員を叩いて起こし、
「予約していないんだけど、シングルルーム二つある?」
と、部屋の鍵をもらい、従業員さんはそのままベンチで寝てしまい、
「これがバックパッカーの旅だ」
と、父は言いました。

退職後の元気な頃には、幼稚園の運動会も、こっそり何度も見にきていました。

実家の家族は、在宅介護をしていた頃の負担が大きく、
とても元気だった頃の事を思いかえすような気持ちにはまだなれないことと思います。

父の兄弟妹は、4人だったのに、今はもう2人になっちゃったね、と言っていました。

晩年は、様々な病気を併発しながら最後は病院で息を引き取った父。
誰にも悟られず、夜中の巡回で死亡が確認されたのも、父らしいと思いました。

自分が寝たきりになった状況をも、
「お芝居だ」
と、言った父。

3月に一度危篤から脱した時に、私が面会すると、
「俺の財布に2千円入っている」
と、孫にまだお年玉を渡していなかった事を気にかけているようだったのですが、
もう随分と自分で買い物に行けるような状態ではなかったのに、後で母が自宅に戻ると、
本当に財布に2千円だけ入っていたそうです。
パンダは、おじいちゃんからもらった最後のお小遣いで、「ドラエもん」を買いました。


胃ろうで、食べられないのに、
「ストロベリーアイスが食べたい」
とも言っていたそうです。

ブラックジョークが得意な人でした。

父が最後に私にかけてくれた言葉は、
「いらっしゃい」。
7月でした。

ほとんど話せなくなったのかなぁ、と思ったら、亡くなりました。

自分の父親が、もうこの世にいなくなったら、
本当に「千の風」を感じるのかなぁ、と思って、
密葬の後、そのまま那須に来ました。

でも、ちっとも風は感じられません。
時間が必要で、いつか、風を感じる時がくるのかもしれませんね。

月曜日には、また元気に出勤します。

こどもたちには、
「まり先生のお父さんが死にました。」は、
言わなくても良いかなぁ、とも思っています。

おじいちゃんが死んだのではなく、「お父さん」なので、
とてもとても心配されると思うのです。
身内の死をまだ未経験の子もたくさんいると思います。
秘密というわけではないので、いずれ園だよりでご報告させていただくと思います。

ご支援いただいた方々に感謝を致します。
香典等は、故人の遺志により、一切、ご辞退申し上げます。


追記
園の保護者様は元より、各関連の方々よりお悔やみの言葉をかけていただきました。
いつも私を見守ってくださっている事に感謝いたします。
闘病中、同居している家族の介護の負担があまりに大きかったために、
私は普段、父の話をほとんどしていなかったので、この記事に関して、
多くの反響をいただきました。

跳び箱の話、事実ですよ。
ついでに言うと、
「ベースギター」や、「ムーグシンセサイザー」も、
学校名のステッカーが貼ってあるものを週末、研究と称して持ち帰ってきてくれました。
興味を持って、「やってみたい」「触ってみたい」がすぐに返ってくる家庭環境で育ててもらったと、
感謝しています。
一度、試してみて、その後、本当に自分のお金で買いたいものかどうか、考える時間があったというのは、後に地方出身の音大生と話をしていて、かなりのギャップを感じたものです。
例えば、管楽器演奏をしている高校生だと、実物を見る事なく、カタログさえもなく、電話注文で手に入るものを買わせていただくのが当たり前だとか。
父は、田舎で音楽の情報のない中で苦労したから、その辺、こどもには手厚くしてくれたのでしょうね。

思い出しつつ、ふと、思ったこと。
いろんなご家業で、それぞれ家庭の習わしがあると思うのですが、
私が、「先生の家の子」として、当たり前と思っていた事のひとつに、
いつか家でどうしても処分しなければならないけれど、気持ちの整理が難しい時に、
こどもたちを納得させるために、
「お父さんの学校に持っていく」
という最終手段があった事です。
弟が大きくなっても手放せなかった超合金のおもちゃ、
ウルトラマンの塩化ビニール人形、
そして、繁殖して増え過ぎてしまったお祭りで買ったネズミ。
系列の幼稚園にあげた事になっていたけれど、
後になって(そこで教育実習をした時)、その幼稚園の立派な建物と園風をみて、
「ないな」と、確信しました。

うちの園でも、キャラクター性の強いおもちゃは受け取れないので、
譲りたいという申し出も丁寧にお断りするところです。
(それはたいていは、卒園児とかではなく、ご近所に住んでいる面識のない方からの事が多いです。)
でも、そんなやりとりをするなかで、
ふと、何十年も前、自分の家でもそんな事があったなぁ、と心が少し揺れるのです。


在園の保護者様の団体より、
香典をお包みいただきました。
改めまして、故人の遺志を尊重して、同会に寄贈させていただきました。
年度末に、園児のための紙芝居等の購入費にでもしていただければ幸いです。

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